15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。
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筆 者: 濱 田 純 逸 18.文化摩擦もっとも、彼自身の中では、日本でいう、いわゆる「いじめ」というものを、自分自身が受けているという認識は、全く持っていなかった。そして、周囲の誰もが、彼のその認識を知ることなく、気がつくことなく、日本人としての視点で、ただ同情しているという構図が起きていた。つまり、デミアン君は、クラスに話しのできる親しい友人ができないという、悩みを持ってはいたが、それは学校の先生方との会話や家庭生活で、果たされていると感じていたのである。しかし、ホストファミリーやその周囲の方々、また、担任の土岐先生、英語担任の木村先生、校長先生方は、クラスの友達が集団無視のいじめを、デミアン君に対して行なっているということで、留学生であるデミアン君が心配であり、いじめ自体にも、問題意識を持っていらっしゃったのである。そこに大きな認識のずれが発生していた。そしてそれも、異文化ならではのことであった。 現実では、いじめを行なう生徒は実在しても、いじめを受けていると認識する生徒は、いなかったのである。何故なら、クラスの生徒達の無視するといういじめの方法は、結局はデミアン君に対して何もしないということであるから、デミアン君には何の意思も伝わらないのである。つまり、日本人は自己主張を余りせず、口数が少なくて、議論を嫌う国民性を持っているという、認識を持つ外国人にとってみれば、意図的に話し掛けないことと、普段から口数の少ないこととは、全く同じ事でしかないからである。だから、友人達が集団で無視するという意図的な行為も、彼にはいじめとしての効果は、結果としては何もなかったのである。もっとも、クラスの友人達は、意図的に、話していないのだと、私達がデミアン君に説明すれば、彼の態度はもっと異なったものになったであろうけれども、当然それは説明しなかった。説明すれば、もっと深い感情的対立と溝が発生する可能性を憂慮したからである。 文化の差は見えないけれど、巨大である。自己主張を是とし、行動がすべての文化と、沈黙が金となり、言わなくても分かるだろうから、それを察してくれという文化。片や謙虚さや慎み深さを美徳とする一方、それらは無気力以外のなにものでもないと考える彼らの考え。精神を鍛練し、根性と忍耐の精神論で論ずる人と、頑固一徹な根性と忍耐の姿勢は、無駄で、無意味としか理解できない方々。間違いや失敗を恐れ、消極的、悲観的になる日本人と、ケセラセラと興味と好奇心だけで、挑戦的、楽観的なアメリカ人。間接的な方法で問題解決を図る我々と、直接的な問題解決方法をとる彼ら。困難を我慢と適応で生きようとする姿勢と、困難を戦うことでしか生きようとしない彼等の生きざま。仕方がないと諦める文化とダメモトでもやってみる文化。 考えればきりがない。すべてがすれ違いである。こんな違いの断面を、考えれば考えるほど、異文化を理解するとは、不可能と思えてくる。異文化を理解するとは、傲慢もはなはだしいとしか考えられない。目の前に立ちはだかる、その巨大な壁を痛感せずにはいられない。 考えてみれば滑稽な話しだ。いじめをする方は、意図的に、集団で無視するという方法論で実行したが、いじめの対象者が異文化を持つ者であったがゆえに、その意図が全くわからず、その方法論では、いじめをする側の目的は全く達成されなかったのである。そして、この事はその後も大きな意味を持つことになった。つまり、この事で生徒達は、いくら集団無視するいじめを行なっても、でしゃばりで、女の子に馴れ馴れしくて、態度のでかい、英語をべらべらしゃべる同級生の態度は、全く変わらず、少しもへこたれないのである。だから、彼らは益々、むきになり、無視する行為はエスカレートして継続し、何の変化も見られないデミアン君の態度に、その後、いじめの方法が、異なる変化を見せ始めたのである。 |
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