15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。
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筆 者: 濱 田 純 逸 13.いじめ留学生であるデミアン君が、いじめの当事者にされようとは、誰も考えてもいないことだった。青天のへきれきとはよく言ったものだ。確かに、日本全国の中学校で、いじめ問題は、学校が抱える大きな問題ではあった。でも、その対象に外国人留学生が、受入先の中学校において、その対象になろうとは、センター職員の誰にとっても、想像を超えた問題であり、国際交流や異文化理解の根幹を揺るがしかねない、根源的な問題であった。 木村先生や校長先生の話によると、それが見られたのは、入学後、二週間足らずのことであったという。そして、彼がいじめの標的とされたその原因は、次の四つに凝縮されていた。 一つ目は、転校生のくせに、彼の態度は大きくて、でしゃばりであるという級友達の指摘であった。その指摘のきっかけとなったのが、水泳大会のクラスの選手代表を決める時のことであったらしい。誰かクラスの代表選手になりたい人はいませんかという問いかけに、彼がすぐに挙手したのだという。でも、クラスの友人に言わせれば、それほど泳ぎはうまいわけでも、速いわけでもないのに、自分から手を挙げるのが、でしゃばりで、けしからんという理屈である。普通、転校生は、何も勝手が分からないわけだから、謙虚に、周囲に指導を仰ぎ、どうすればいいかという困惑した姿勢を示せば、周囲は親切に教えてあげるという気持ちにもなる。それが、そのような姿勢が全く見られないから、何も教えてあげる気にはならないというのである。 この問題は、明らかに文化摩擦であった。私たちが日米の違いで言う、謙譲と自己主張を美徳とする文化の差である。いくら自分ができたとしても、それを控えめな態度で、謙虚に謙遜し、否定することを美徳とする日本の価値観がある。反対に、買ってもらったばかりのおもちゃのピアノを弾いている5才の娘を、平然と「She is a pianist.」と紹介し、庭いじりをしていたらすぐに、「植物学者」と表現する彼らの方法論があるのである。実力があっても、それを否定しようとする謙虚さを見せる文化と、実力以上に誇張して表現する文化の差は歴然としている。全く正反対の価値を持つ者の間で、その能力が自分で言うほどに無いものが、あるかのごとき態度で主張したものだから、なおさら、生徒の気持ちを逆なでしてしまったようだ。日米間ではよく見られる文化摩擦の一つである。 二つ目は、女子生徒への態度がなれなれしいというものであった。これも、文化の違いを起因とするものである。欧米人の女性に対する接し方は、日本人のそれとは明らかに違う。不器用で、照れくさく、興味なさそうな素振りを見せながらも、それでいて遠巻きにクラスの女子生徒を見ている男子生徒からすれば、デミアン君のレディーファーストの有り様は、格好をつけているとしかとられなかったであろうし、それに嬉しそうに反応する女子生徒が、また恨めしく感じられたのであろう。女子生徒優先の接し方が、余りにも直截的で、大胆で、馴れ馴れしいものと映ったに違いない。心を寄せる女子生徒に、いたずら的な行為でしか、その感情表現をできない日本の男子生徒にとって、デミアン君の態度は何と羨ましいほどのものであったか想像に余りある。女性に対して、余りにもカッコよすぎる男性を、同性が羨ましくも、妬ましくも、疎ましくも思うのは、誰だって同じ思いであろう。ましてや、田舎の男子生徒が、都会の男子生徒の、都会ならではのカッコ良さに嫉妬し、それを意図的に嫌悪するのは、当然のことなのであろう。 そして、三つ目は制服であった。本来なら、夏服の黒いズボンと白い開襟シャツが制服である。来日して、すぐの学校生活に準備が追いつかず、金銭的出費の問題もあった。一学期終了まで、もう一月足らずだからということで、黒いズボンは用意できたが、校長先生の配慮で、開襟シャツは白い体操服のようなもので、間に合わせようということになった。それが生徒達には、異なる処遇と受け取られたらしい。文字どおり何の変哲もない白いシャツなのだが、自分達とは異なる服装だと、それを特別扱いの証左ととる彼らの目に、明らかに有無を言わさぬものを感じた。外国からの留学生だから、このくらいは理解を示してくれるであろうという、私たちの思惑は、とんでもない油断であった。 四つ目の理由には、聞いて言葉を失った。唖然とした。そして、深く考えさせられた。それは、デミアン君が英語を話せるのが、生意気だというのだ。自分達がこれだけ苦労している英語という科目を、あの態度のでかいデミアン君が、難なくしゃべっているのが、たまらなく、鼻持ちならないというのである。彼らにはカッコよく見えたのだろう。さらには、それを人前で彼が得意げに、威張って、誇示しているかのように見えたのであろう。デミアン君が、母国語をしゃべっているという意識は、彼らには決してない。同じクラスのでしゃばり人間が、得意満面で英語をしゃべるのを見せつけられているという、ただただ、不快感と不愉快さだけなのであろう。自分達にはできないことを、彼がいとも簡単に、完全にできるのが癪に障るという、中学生には簡単な理屈である。 これらの四つの理由を聞かされて、生徒のデミアン君に対する素直な感情や気持ちは、痛いほど理解できた。やはり、我々は日本人であり、彼らは日本人中学生である。指摘するそのひとつひとつが、一方的であるけれど、全く彼らの言う通りなのである。返す言葉が見つからない。否、返す言葉、説明できる理屈は数多くあるのだけれど、この期におよんで、彼らの純粋一徹な視点とそのあどけないほどの無邪気な考えには、沈黙しかなく、この世の既存の常識とか、誰しもが共有する価値や暗黙の了解とか、解ったような、解らぬような黙約などは、所詮、得手勝手な自己のためのものでしかないと、叩きのめされるようなものであった。そして、それらは私には多くの示唆と教訓を与えてくれるものであった。 けれども、それが何故、無視という形によるいじめにつながったのかということが、センター職員や私にとっては、最も大事な問題であり、考えなければならない課題であった。
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