15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。
HOME > デミアン君の日本留学顛末記| > 03受入れ態勢 |
|
筆 者: 濱 田 純 逸 03.受入れ態勢通常、このような場合、私達が考える技術的な留学の手順は、簡単に言えば、次のようになる。まず、第一に、受入れ可能な学校と相談して、適切な学校を決定することが先決であり、次に、決定したその学校へ、距離的に通学可能な範囲内に、ホストファミリーを探すことが、基本的な手順である。第二は、この受入れ学校とホストファミリーとに対して、異文化に関する摩擦やケーススタディ、予測できる問題、受入れのあり方などを指導することが必要である。異文化体験を行なおうとするものが、これらの事前学習会と打ち合せを疎かにしてしまうと、必ずといっていいほど両者に、不満や問題が発生する。私達が数多く耳にする、素人だけによる異文化間の原始的と言ってもいいような文化摩擦は、この第二の手順がなされていないことが、圧倒的に多い。 自宅で外国人をお世話した方が、二度とお世話するのは御免だとか、外国人を雇用するのはもううんざりだとか、外国人に部屋は貸さないなどの話しは、全国どこにでもあることだ。異文化の接点は、困難と傷だらけである。いずれも、ほとんどの場合が、結果的には、悲しい、恨めしい、腹立たしい、国際交流物語なのである。そうならないために、しっかりとした事前学習会と打合わせを行なう必要がある。そして、第三は、日本国に入国する際の査証(ビザ)取得に必要な書類や、参加する学生の個人書類や、ホストファミリーの受入れ書類など、事務的な作業となっていくのである。デミアン君の場合も、それから約二週間後、彼に関する様々な書類が送られてきて、それらの作業が始まった。 その頃、私ども南日本カルチャーセンターでは、九州各県の50以上の地方自治体から委託を受けて、「海外派遣事業」「青少年国際交流事業」「異文化理解のためのホームステイ事業」などの地方自治体による、様々な国際交流教育事業のお世話をしていたため、その担当者から、こちらからの派遣だけではなく、「外国人の受け入れ事業」を希望する声を、数多く聞いていた。だから、地方自治体として受け入れを探すことは、全く難しくないと言ってよかった。むしろ、多くの希望の中から、一ヶ所だけを決定することが大変なことという感じであった。 九州各県の中で、いくつかの候補地を考えた。まず、初めに、保護者が同伴せず、外国人中学生ひとりでの長期留学の前例が、日本では珍しいということで、期間中、様々な緊急事態に対応できる即応性と利便性を考慮して、センターの本社がある鹿児島県で、この救急な生徒のお世話をしようということになった。それも、出来るなら、本社の所在地である鹿児島市に近いということ、でも、鹿児島市内の学校は大規模校が多いため、近郊の小規模校がベストということになった。そのすべての条件に合致するところのひとつが、桜島町の桜島中学校であった。一つだけ憂慮されることといえば、学校が決定し、その滞在先を彼と彼の両親に連絡し、その自然的環境、つまり町の数マイル離れたところに活火山があって、いつも噴煙を上げ、たまにはその火山灰が降ってくる環境であると説明すれば、危機意識の強いアメリカ人がどういう反応を示すかという危惧であった。 そういう思いを抱きながら、事前に電話で少しの打診をした後、桜島町教育委員会の社会教育課に、正式にこの件を相談するため、桜島行きのフェリーに乗った。1995年3月16日の午前8時であった。
|
MNCC 南日本カルチャーセンター Copyright © 2007 MinamiNihon Culture Center. All Rights Reserved. http://www.mncc.jp |