15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。

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■ はじめに 目次
01 真の国際交流?
02 デミアン来日のいきさつ
03 受入れ態勢
04 思わぬ難題
05 日本の役割
06 ホストファミリー
07 混迷する査証(ビザ)
08 大和魂を学びたい
09 入国審査
10 デミアン君の来日
11 学校と家庭
12 異文化
13 いじめ
14 生徒の反旗?
15 深まる謎
16 憂える国際化の末路
17 家庭生活
18 文化摩擦
19 血尿
20 修学旅行
21 お金の問題
22 異文化の狭間で
23 どうすべきであったのか
24 自由とは何か
25 いじめの中の帰国
26 終わりに

筆 者: 濱 田 純 逸

15.深まる謎

国際交流とは、異質の価値の交流である。異質の価値の相互の理解である。異なることを前提として両者が対峙し、なおかつ、異質のものの存在を、お互いが容認し、理解し、尊敬し、共存しあうという一連の行為である。そして、いじめとは、基本的に、受入れられないものへの排除行為である。排除行為であるから、一方的であり、排他的であり、独善的であり、攻撃性がある。もし、異質のものが、異質であるということだけで、受入れられないものとなるのなら、国際交流にいじめはつきものということになる。国際交流において、いじめは発生しやすい要因を多分に持っているのである。だから、国際交流といじめは、常に密接な相関関係にあるという認識を持っておくことは極めて重要である。

確かに、人類の歴史を考えてみれば、基本的には、民族と民族の対立の歴史であると言える。民族と民族、すなわち、異文化の対立でもあるということだ。いじめも対立に他ならない。だから、異文化間の原始的形態は、対立する関係であることは明白である。だからこそ、その理解と認識の経緯を経て、人は共存という理念を体得し、理性でその実践を試行しようとしているのである。もし、これらの理念を捨てて、異文化の交流を自然に任せ、野に放つのであるなら、対立が発生するのは、自然の成り行きなのかもしれない。そう考えれば、今回の生徒達のいじめは、納得できる結果でもあった。でも、実際の過去におけるこれまでの受入れ体験では、それは皆無であった。それが何故、今回、突然発生したのか。これまでと何が異なったのか。

また、国際交流や異文化理解に、肝要な姿勢を一言で述べれば、「相手の立場にたつ」ことである。すなわち、相手の立場や相手の視点を、自分の中に仮想し、相手に配慮するという気持ちがなければ、絶対に国際交流や異文化理解は成り立たない。同様に、いじめ問題を解決するヒントも、「相手の立場にたつ」ことである。だから、この全く異なる「国際交流」と「いじめ問題」は、「相手の立場に立つ」という視点で、全く同一の方法論を有する、異質の問題のようでも、同質のテーマを持つものなのである。それが、全くその方法論と趣旨に相反する形で、すなわち、国際交流の場で、いじめが発生したのである。それが何故、今回発生したのか。

考えても、考えても、理解できなかった。通常なら、国際交流は、異質の価値の交流を目的とし、それを前提として始まるから、その異質のものを集団で排除するという行為は、考えられないこと、有り得ないことである。それを排除するということは、国際交流においては自己矛盾を伴うものでしかないからである。だから、異質なものは、異質のものとして、絶対的に受入れる事ができるのである。そして、少なくともその前提に立って、国際交流という恣意的な、意図的な交流は、実践されているのである。その前提がなければ、交流そのものがまず発生しないのである。

生徒にとって、一つ目の理由でも、二つ目の理由でも、三つ目の理由でも、彼はアメリカ人だから、異なる文化を持っているのだから、きっとアメリカ人はそうあるのだろうと、彼らが考えれば、すべてが、異なることを受入れることができるはずなのである。それが、そう考えられなかった。ましてや、四つ目の理由にいたっては、彼がアメリカ人であるという、異言語を話すという、すなわち、異なる文化を持つものであるという認識すらも持ち合わせているように思われない。生徒の言っていることだからでは、済まされないほどの、悪意のある発言ともとれるのである。私たちの悩みは大きかった。衝撃が大きかった。常識的には、信じられないことだった。

唯一、可能性として考えられることは、デミアン君を、彼らが他の日本人生徒同様に、純粋に見ているから起きたことではないかという仮定であった。よく言えば、「外人」という視点ではなく、クラスの転校生という気持ちで、日本人と同様に見ていることの証左ではないかということであった。理屈で考えれば、誰だってアメリカ人が英語を話すのは、当たり前と思うのが自然であろうが、信じられないことに、彼らの目には、「今度の転校生は、英語がしゃべれる生意気な奴だ。」と解釈していると考えれば、そう指摘できることでもあった。言い換えれば、彼らが全く意識せずに、デミアン君と接しているからこそ、いじめが発生したとも言えないことはなかった。それでも、この外人という垣根を越えた視点が、生んだ問題ととらえることも、その確証はなかった。

16.憂える国際化の末路

 

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