15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。
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筆 者: 濱 田 純 逸 07.混迷する査証(ビザ)残された最大で、根幹的な問題である、留学査証の取得は、困難を極めていた。前述したように、鹿児島市の入国管理事務所、福岡市の入国管理事務所も、外国人中学生の留学査証は無いの一点張りである。思い切って、最後の砦である法務省本庁に直接電話を入れて、この窮状を救える手だてはないものか、ここまできたら駄目を承知の気持ちで、やるだけはやってみようと、ダイヤルを回した。 いくつかの部署をたらい回しにされた後、長い間、保留電話にさせられて、約5分後に、担当者という方が応対された。そこで、デミアン君のここにいたるまでの経過と、これまでの入国管理事務所との経緯について詳細に説明し、今後の国際化の進展次第では、この様な中学生の留学が、日本でも数多く発生する可能性が高いことも訴えた。すると、こちらの話しを途中で遮りながら、「福岡の入管は、どのように応えましたか。」と聞かれたので、「留学を目的とする外国人中学生の査証はありません。」という説明しかされなかったことを告げると、「彼らはそう答えるしかないでしょうね。」「現実問題として、どのような方法で入国できるかと尋ねられても、それ以上の返答は、彼等にはできないでしょう。」と、まるで他人事のように言われるだけであった。さらに、こちらの事情と目的を詳細に説明し、「留学生10万人計画」にも触れて、文部省のこれまでの積極的な受入れ姿勢にも敷延しながら、法務省の入国査証に関する閉鎖的な考え方も対比させて、暗に縦割り行政の矛盾を指摘しながら、打開策や方法論は全くないのかも質した。すると、さらに約10分程電話を保留にされた後、担当官は、上司と相談の上、回答するということで、電話を切られた。そして、「北園」という名前を最後に告げた。 その法務省の北園氏から電話を頂いたのは、翌々日のことであった。管内の課長を始めとする上の者と、この件につき相当な議論があったのは、想像に難くなかった。デミアン君の査証の必要性が、充分に理解されたらしく、少しは審議されたのであろう。しかしながら結果は、この様な事例に対応する在留資格は、考えられないということであった。これで万事休すかと思えば、その後の行政マンが法を弄する、言葉遊びのような難しい長話は、ほとんど聞いていなかった。ここで手を引いたら、今後、十年間は同様のケースに、留学査証の発給はないと思い、適当に相手の話しに相づちを打ちながら、相手の話しを無視する形で、こちらの言い分を一方的に、支離滅裂に、時には、感情的に言うだけであった。 「日本に対するデミアン君の留学の熱意を、私たちはどう思い留まらせればよいのか。」という心情論や、「日本で勉強したいという意志のある海外の中学生に対して、日本国は、その受入れを可能にする方法論は、準備していないということですか。」という正論や、「世界の中の日本と声高に叫び、先進国を自認し、留学生10万人計画を標榜する国の姿勢ですか。」という脅しなど、手練手管の雨あられである。ほとんど、北園氏の説明は耳になかった。 突然、「それでは、サンフランシスコの日本領事館で、彼に査証の申請をさせてください。外務省経由で、最終的には私の手元に来ますので、それから具体的に検討しましょう。」と言われて、我に返った。何がなんだか分からない。該当する査証はないと言ったではないか。それから具体的に検討しましょうとは、どういうことだ。いったい、彼は何を考えているのか。彼の意図が全く見えてこない。そして、さらにその後の彼の一言は、私にとって、強烈であった。 「私も鹿児島県出身ですから、お気持ちはよく解ります。」 同郷のよしみとはよく言ったものだ。非論理的な、心情的な話しなので、訳はわからないのだけれども、知人が何らかの画策を行なってくれるのかというような思いで、理解できないにもかかわらず、少しの光を感じ始めていた。電話を切ってからも、「貴センターのことは、個人的にも存じております。時々、帰郷した際に、新聞等でもその事業内容は知っております。」と最後に話された一言に、さらに勇気づけられた。嬉しかった。まさに、地獄に仏とはこのことであろう。
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