15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。
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筆 者: 濱 田 純 逸 02.デミアン来日のいきさつ初めて、南日本カルチャーセンターへ、アメリカの公益法人である教育機関から、九州でアメリカ人男子中学生の留学を、お世話していただけないかという話が来たのは、1995年の2月20日であった。その最初のファックスでは、当初、彼は神戸の学校に行く予定であったこと、それが阪神大震災で不可能になったこと、そこで、北海道、関東、関西にある、日本の受入機関に相談したが、余りにも急すぎるという理由で、すべて断られたということ、もしセンターで受入れてもらえなければ、彼の留学は断念せざるを得ない状況に来ているということ、そして最後に、大至急、諾否の返事が欲しいということなどが書かれてあった。 しばらく考えた後、折り返し、すぐに承知したとのファックスを流した。しかし、それが、今後どれだけの労苦になるとは、その時点では予想だにしなかった。もちろん、承知の返事をしたのには、成算がなかったわけではない。これまで何回も、留学生の世話はしている。さらには、「国際交流教育事業」や、事前学習としての「異文化理解」「相互理解」に関しても、その道のプロである。片手間で交流事業をやっているのとわけが違う。理念もあれば、充分すぎる資料も経験もある。私たちが出来なかったら、どこにもできないという自負も誇りもある。アメリカの公益法人が、最終的にセンターに依頼してきたのも、私たちが最後の砦であると見られているようでもあったし、センターができなかったら、諦めるしかないという、彼らの覚悟も文面に感じられた。関東や関西の受入機関が出来なかったことでも、センターならやってくれるかもしれないという、彼らの期待に応えられれば、今後、益々、センターの彼等に対する発言力が増すだろうという、打算や利害も感じていた。 当然、手続きについても、旅行業法上の情報は持っているし、実績も数限りなくある。問題性は全く見あたらない。難があるとすれば、5月初旬頃に来日したいという、彼の希望を満たすためには、2カ月余りしかないという、準備期間の問題だけであった。それも、先方には融通性があるというのであれば、断る理由もない。ましてや、阪神大震災で日本中が大騒動をしている最中、そのことが理由で、予定された学校へ行くことが、急に出来なくなった彼の不幸を思えば、これもまた、神戸で始まっている日本で初めての、全国的、組織的なボランティア活動と同次元の、もしくは、その延長上にあるもう一つのボランティアと考え、腹を決めたのである。 |
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