15歳の米国人中学生の留学体験記。日本という国で、日本人と生活し、日本文化を体験する彼と、彼と関わりを持つ方々が体験した異文化交流の記録である。そこには多くの日本人が抱く「国際交流」という華やかさはない。

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■ はじめに 目次
01 真の国際交流?
02 デミアン来日のいきさつ
03 受入れ態勢
04 思わぬ難題
05 日本の役割
06 ホストファミリー
07 混迷する査証(ビザ)
08 大和魂を学びたい
09 入国審査
10 デミアン君の来日
11 学校と家庭
12 異文化
13 いじめ
14 生徒の反旗?
15 深まる謎
16 憂える国際化の末路
17 家庭生活
18 文化摩擦
19 血尿
20 修学旅行
21 お金の問題
22 異文化の狭間で
23 どうすべきであったのか
24 自由とは何か
25 いじめの中の帰国
26 終わりに

筆 者: 濱 田 純 逸

02.デミアン来日のいきさつ

初めて、南日本カルチャーセンターへ、アメリカの公益法人である教育機関から、九州でアメリカ人男子中学生の留学を、お世話していただけないかという話が来たのは、1995年の2月20日であった。その最初のファックスでは、当初、彼は神戸の学校に行く予定であったこと、それが阪神大震災で不可能になったこと、そこで、北海道、関東、関西にある、日本の受入機関に相談したが、余りにも急すぎるという理由で、すべて断られたということ、もしセンターで受入れてもらえなければ、彼の留学は断念せざるを得ない状況に来ているということ、そして最後に、大至急、諾否の返事が欲しいということなどが書かれてあった。

しばらく考えた後、折り返し、すぐに承知したとのファックスを流した。しかし、それが、今後どれだけの労苦になるとは、その時点では予想だにしなかった。もちろん、承知の返事をしたのには、成算がなかったわけではない。これまで何回も、留学生の世話はしている。さらには、「国際交流教育事業」や、事前学習としての「異文化理解」「相互理解」に関しても、その道のプロである。片手間で交流事業をやっているのとわけが違う。理念もあれば、充分すぎる資料も経験もある。私たちが出来なかったら、どこにもできないという自負も誇りもある。アメリカの公益法人が、最終的にセンターに依頼してきたのも、私たちが最後の砦であると見られているようでもあったし、センターができなかったら、諦めるしかないという、彼らの覚悟も文面に感じられた。関東や関西の受入機関が出来なかったことでも、センターならやってくれるかもしれないという、彼らの期待に応えられれば、今後、益々、センターの彼等に対する発言力が増すだろうという、打算や利害も感じていた。

当然、手続きについても、旅行業法上の情報は持っているし、実績も数限りなくある。問題性は全く見あたらない。難があるとすれば、5月初旬頃に来日したいという、彼の希望を満たすためには、2カ月余りしかないという、準備期間の問題だけであった。それも、先方には融通性があるというのであれば、断る理由もない。ましてや、阪神大震災で日本中が大騒動をしている最中、そのことが理由で、予定された学校へ行くことが、急に出来なくなった彼の不幸を思えば、これもまた、神戸で始まっている日本で初めての、全国的、組織的なボランティア活動と同次元の、もしくは、その延長上にあるもう一つのボランティアと考え、腹を決めたのである。

03.受入れ態勢

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