多くの社会人は、アルコールを飲む機会が多く、飲む量が多いほど、そして酔わないものほど、居合わせたものに対して、優越感を持つこととなる。しかし、結果的に酔う人が多い。常習的に飲酒を行う人も多く、周囲の者も酔っ払いには、大変寛大である。酔っ払った人の行為は仕方がないと考え、「酒の上での話ですから」と、責任を問おうとすることも余りない。そのため、酔った勢いで言えないことを言ったり、出来ないことをやろうとしたりする人が見られる。反面、飲酒運転には厳しく、酔っ払っているかいないかに関係なく、飲酒しているということだけで処罰の対象となる。また、酔っ払いは特別軽蔑されることはなく、仕方のないこととして理解されることが多い。 |
アルコールを飲む機会は多いが、酔っ払いは少ない。また、飲む量が多いということで、居合わせたものに優越感を持つことはない。むしろ、飲む量が多いということは、自分自身を管理できないという意味でも、軽蔑に近いものがある。つまり、酔ってきているから、飲む量が増えていると考えられ、酔っ払いは軽蔑の対象となるからである。酔った上での行為という責任を回避する考え方は、容認されない。常習的に、アルコールを飲むことは、その量の多少に関わらず、アルコール中毒症と考える。アルコール中毒症は、精神的に弱い人であり、自己管理が出来ないという社会的落伍者のレッテルを張られることとなる。飲酒して運転している人は多く、必ずしも処罰の対象とはならない。飲酒そのものが問題ではなく、酔っ払っているかいないかが問題とされる。 |