日本とアメリカの文化や習慣や教育、社会生活や考え方など、様々な違いを比較対照しながら、相対的に説明したものであり、MNCC職員によって執筆されたものです。

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■ 学習の前に
■ 目 次
■ 家庭生活編
■ しつけと教育編
■ 市民生活編
■ 慣習編
■ 世間と風俗編
■ 公共道徳とマナー編
■ 行動様式編
■ 形而上的価値編

●幼少時のしつけ
日 本
アメリカ
幼少時のしつけは一般的に甘いと言える。大人は小学生ぐらいまでの子供に対してはやや甘いが、小学生以下の幼児に対しては大変甘い。礼儀やマナーに対する非礼をおかしても、「子供だから」ということで、親だけでなく、周囲の者も寛大に考える傾向がある。車に乗る時は、子供の座りたい場所に座らせ、公共乗物などでは、大人が立って子供を座らせているのが見られるのもその一端である。子供は親や周囲の大人達に対して、自分中心で、甘えることが多く、わがままであったり、マナーやエチケットや礼儀などの社会性に欠ける傾向がある。そして、それが大人になっても公共道徳の欠落という形で残る場合が多い。 大人は、幼少時から子供に対しても、人格を持つ一個人として常に対等に接し、特に、社会的マナーや公共道徳などのしつけを厳しく指導し、他人に迷惑をかけることがないようにしつける。子供が非礼をおかしている時や、マナーやエチケットなどの公共道徳の違反に対しては、親だけでなく周囲の大人も注意することが見られる。子供だからといって寛大に扱われることはなく、幼少の頃から「他人に迷惑をかけない」という社会性や公共心を厳しくしつけることによって、自立を促す。子供は親や周囲の大人達の言うことをよく聞き、甘えることのできない精神的自立を、幼少時のしつけの中から要求されている。

 

●家庭教育としつけ
日 本
アメリカ
基本的に、親の家庭教育はあっても、しつけは存在しないといえる。家庭教育とは、親の希望を子供に投影させた教育である。教育に熱心な親が多く、特に母親にその傾向が見られ、また、都市部に行けば行くほどその傾向が強くなる。大学入試の偏差値が高ければ高いほど、その大学は良い大学と無条件に考えられ、より偏差値の高い大学に入学することが出世と比例すると一般的に考えられている。そのため、子供の個性や能力や希望を無視して、一方的に偏差値の高い高校、大学に入学させるための勉強や習い事を、子供に無理強いする親が多く見られる。また、いい教育を子供に受けさせてやることが、親の義務であると考えられている。そのためには親が犠牲になることも、しばしば見られることである。家庭で過ごす時、子供が遊んでいるのを見て叱る親はいても、勉強しているのを見て叱る親はいない。すなわち、子供の生活に勉強至上主義的な価値観を持つ親が多い。そのような教育や習い事中心の家庭生活で、しつけは軽視されているのが実状である。 基本的に、親の子供に対するしつけは存在しても、親の希望を子供に投影させた教育はないと言える。すなわち、親の価値観で教育を子供に受けさせるのが教育ではなく、子供の自由な個性や能力や才能を尊重し、それが何であるかを自由な生活環境の中から見つけだし、それを最も伸ばすことのできる環境を作り出して上げることが、親の子供に対する教育であるという理念が一般的である。そのため、子供の個性を無視して、親の価値観で子供に特定の教育や習い事を強要する親はほとんどいない。そして、子供への教育のために親が子供の犠牲になるということもない。むしろ、家庭生活では他人に迷惑をかけることのないように、しつけの徹底が優先されており、子供は勉強をすることだけを期待されているのではなく、子供も家庭を構成する一員として、あらゆる作業や家事( chores )を分担することが当然として考えられている。さらに、家庭には勉強机もないところも多く、勉強をするところは学校であり、家庭は勉強するところではないという考えを反映している。

 

●親子の自立関係
日 本
アメリカ
親は、子供が幼少であればあるほど子供を所有化し、自分の意志で子供をどうにでもできるという潜在的意識を持っている人が多い。そして、親は子供が学校を卒業して働くまで、もしくは成人するまで、子供の行為や行為の結果までにも、社会的責任を負おうとする。時には、子供が成人してからもそれを負おうとする親もいる。また、社会も親にそれを求めようとする傾向が、しばしば見受けられる。親は子供をいつまでも保護しようとし、子供はいつまでも親に保護を期待するという観念が一般的であり、年齢に関係なく、いつまでも親に対しては、精神的に自立していない子供が多い。特に、母親と息子、父親と娘のような異性同士の親子関係は、緊密であったり、いびつであったり、同性の親子関係以上に、特殊な依存関係にあることが多い。 親は、子供に対して人格を持った一人の個人として、その存在を客観的に認め、自分と対等に扱おうとする姿勢があり、子供を所有化する事はなく、自分と子供の間に一線を引いている。親の子供に対する責任は、できるだけ早く子供を自立させ、社会に貢献するよりよい社会人を育てることであり、それが親の子供に対する最大の関心事であるといえる。子供も早くから自立したいと考え、それは早く大人になりたいという気持ちを子供の間に抱かせる。そのため、子供が大人びた言動をお互いに誇示しあうという風潮を生んでいる。一般的には、中学生のころから精神的に自立し、高校を卒業すると同時に、大学に進学するとしても、就職するとしても、経済的にも自立して、家を出て一人で生活することが多い。反面、家庭を去って自立した子供に対して、家庭に残された親は寂しいと思うことが多い。

 

●余暇の親子関係
日 本
アメリカ
余暇活動は、子供を中心に計画されることが多い。子供と一緒に、「何を食べるか」「どこに行くか」「何を見るか」「何をするか」という場合は、親の意思よりも子供の希望を優先して、子供中心に計画される傾向がある。子供を親戚や知人に預けて、夫婦だけで買い物や観劇、旅行などの余暇を楽しむことはあまりなく、その際、子供も同行することが多い。 余暇活動は、基本的には家族の話し合いの中で決められるが、最終的には、何をするにしても親の意思が反映され、親を中心に計画される傾向があり、子供の希望のために親が譲ることは一般的ではない。親の社会的活動の場に子供を同伴させることは、ほとんど見られず、子供は親の活動を邪魔しないように厳しくしつけられている。また、子供は子供の計画で余暇を過ごし、夫婦は夫婦で子供とは異なる余暇を、それぞれに楽しむことも、よく見られることである。

 

●父と母の役割
日 本
アメリカ
父親は外で働き家庭に収入をもたらせ、母親は家庭を守り、家事全般を担当し、夫や子供達の世話をするのが役割であるという考えが一般的である。家庭内では母親が炊事、洗濯、掃除などのすべての日常雑用を行い、その結果、子供達は特別母親を身近に感じ、甘え、依存し、依頼することが多くなり、父親以上に母親に特別愛情を感じる場合が多い。父親の生活は仕事を中心としており、家庭では父親不在の生活環境も珍しくない。共働きであったとしても、父親が炊事、洗濯、掃除をするということはまれである。 父親も働き、母親も仕事を持つ場合が多くみられ、家庭内での家事における父親と母親の分担は、平等であることが多い。家事は家族全員が分担して行うものと考えるのが一般的である。子供達は自分でできることは自分でやろうとし、母親に対してのみ特別身近に感じ、異なる感情を持つこともない。仕事を持たない母親の役割は、基本的に家事と育児が中心であるが、その場合でも、父親の生活が仕事中心となることもなく、父親も積極的に、炊事、洗濯、掃除などの家事に参加し、子育てにも関与する。仕事を持つ母親の生活と父親の生活は、それぞれ自立しており、両者の家庭生活は契約に基づく共同生活を思わせる。

 

●教育と職業
日 本
アメリカ
中学校までが義務教育であるが、ほとんどの者が高校に進学する。そして、大学の入学は難しいが、卒業は容易である。その背景には、何をどの大学で学んだかよりも、どの大学にいたかを問う社会的価値観が存在する。そのため、就職の際には、大学での専攻を活かせる職業よりも、就職する企業の規模の大きさや、有名度の方が優先される場合が多い。さらに、企業もどの大学で学んだかを考慮することが圧倒的である。すなわち、教育は教育、就職は就職という考え方であり、そのため、企業は入社後、社員教育を行い、仕事に必要な業務知識は、企業で指導しようと考えている。大学卒業の時期に合わせて、ほぼ全員の卒業生は就職しようとし、企業側もその時期に合わせて、大量の新卒者を雇用する。また、大学を卒業した後、学ぼうとする人は少なく、その場所も限られている。 高校までが義務教育。大学は入学するのは容易だが、卒業は難しい。高等専門教育は大学からと考えられており、大学卒業後、大学院やビジネススクールなどに進学する者も多い。短大や大学などの専門教育は、常に市民に門戸が開かれ、年齢に関係なく、いつでも、だれでも、教育を受けられるように、成人教育は生涯にわたって可能である。大学、ビジネススクール、短大などで、何を学んだかが職業の選択に大きく影響してくる。すなわち、就職の際、どこで働くかということよりも、専門として学んだものを活かせる職場が優先される。企業は、入社後、社員教育を行い、仕事に必要な業務知識を指導しようとする考えはない。また、大学生の卒業時期に合わせて、企業側が大量雇用を創出するということもしない。卒業時期という特定の時ではなく、1年を通して企業が必要とする時に、必要とする人材の、極めて具体的な職種と仕事内容を提示して、雇用を行なっている。

 

●学校教育の目的
日 本
アメリカ
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進む課程の中で、次に進学する、よりよい上級校へ入学させるための教育を行っていると言える。その結果、最終学府である大学の上級校がないため、そこまで到達した学生は目的を失い、急速に怠惰になる傾向がある。 社会に貢献するための、よりよい市民を育成することが、学校教育の目的であると考えられており、そのためには地域住民がいつでも学べるように、市民講座的な形で大学は常に開放されて、その利用者も多く、生涯学習としての体制が確立している。そのため、大学生の年齢の幅は極端に広い。

 

●教師の指導方法
日 本
アメリカ
基本的には、教師は生徒を「叱る。けなす。」という方法をとりながら、生徒を発憤させようとする。また、教師は生徒に基本を徹底的に教えるというやりかたが多く見られる。生徒は教師に一定の距離を感じていることが多い。 基本的には、教師は生徒を「誉める。おだてる。」という方法をとりながら、生徒のやる気を喚起させようとする。また、教師は生徒にやりたいようにやらせ、生徒の最もやりやすいやりかたを尊重する姿勢が多く見らる。生徒は教師を身近な存在と感じていることが多い。

 

●学校制度
日 本
アメリカ
文部科学省による中央集権的行政の中で、小学校は6年間、中学校3年間、高校3年間と決められており、学年はそれぞれ1年生から始まり、中学校までが義務教育である。大学は2年間の短大と4年間の大学があり、通常は、入学した大学を卒業する。大学を卒業後、就職して、在職しながら、もしくは退職して、学業に復学するということは希である。また、大学入学には試験があり、希望する大学に入れないことも多い。そのため、大学を卒業して就職したら、再度、大学に入学することはほとんど無い。 小学校は6年間、中学校は2年間、高校は4年間である場合が多いが、中学校3年間、高校3年間という地区もある。それらの決定は、地域行政に委譲されている。小学校から高校生までの12年間が義務教育であり、学年は1年生から12年生まで通して呼ぶ。大学は2年間の短大と4年間の大学があり、必ずしも入学した大学を卒業するとは限らない。入学した大学で数年学び、別の大学に編入し、卒業するということも頻繁にある。また、大学2年で卒業し、しばらく働いてから再入学することも珍しくない。大学は年齢に関係なく、ほとんど誰でも自由に入学できて、学べる環境がある。

 

●学校教育の方法
日 本
アメリカ
知識を記憶させることを中心とした、理論中心の机上の学問と言える。あらゆる分野において理論を核とする、多くの定理や知識を暗記させ、詰め込んでいくという教育を行っている。そのため、学生は教科に関係なく、一般的知識は豊富であり、物知りである。しかし、知識を記憶することが目的となり過ぎ、理論的知識が断片的で、実社会とは程遠い内容となり、創造性においては有機的に機能しないという面も合わせ持っている。学習する内容は、文部科学省による学習指導要領によって決められており、学生の選択肢はほとんどなく、固定的、平均的、一律的な教育環境である。 知識や情報を実社会に関連させながら、解析し、理解させ、教えるというより、自らが学ぶことを中心とした実学であるといえる。学生は定理や理論を覚えるというよりは、その理論や定理が実社会において、実際にどのように機能していたり、影響を与えているかという視点で指導を受けることが多い。学習する教科も、学生の興味を重視し、好きな科目や分野を自分の選択で選べるようになっている。そのため、あらゆる分野に平均的な知識を持つという学生は余り見られないが、得意な分野では傑出した者が見られ、飛級も認められている。
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