南日本カルチャーセンターは、おかげさまで50周年を迎えました

創立50周年を迎えて


 振り返れば、今から50年前の1974年に、郷土の青少年に「国際的な体験の場」を提供する目的で、 第1回アカデミックホームステイが南日本新聞社の共催の下で実施されました。当時、同社の事業部部長の職にあった亡父濱田行一からその年の夏に米国に出張するので、 大学生の私にも同行して欲しいという電話があり、急遽157名の中高生を連れて米国カリフォルニア州に行く羽目になりました。チャーター機が到着したのはロス空港、 着後レンタカーを借り、南カリフォルニア大学の寮に向かった子供たちのバスを追いかけることから実質的な私の50年間にも亘る仕事が始まりました。 初めての海外の運転に肝を冷やしながら、あっという間に、45日間が過ぎ去っていきました。私が助手席に座りナビをして、父は左ハンドルに右側通行という難行をロスの 大都会で命がけで行い、二人ともシャツの背中は冷汗でびっしょりとなり、今日も命があったと思いながら、宿泊先に帰って行ったものです。 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、九州でしか運転したことのなかった者が、ロスを左ハンドル右側通行、時速120キロで常時運転する恐怖は、 体験した者以外はわかりません。二年目の夏は、景色を眺める余裕もでき、生徒のケアにも集中出来るようになっていきました。 以来、毎夏渡米し、2万人を超える子供たちを直接お世話するために、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州を走破する人生を、50年に亘り継続して参りました。



 弊社 南日本カルチャーセンターは、1975年12月17日に創立され、2024年冬に創立50周年を迎えました。大学を卒業したばかりの私には、 先の見えない職種に大きな不安を感じ、定年退職したばかりの亡父が60歳を過ぎてからひとりで取り組めるような仕事とは思えませんでした。家では、 母も同様の気持ちを抱いており、前に進もうとする父とそれに反対する母親の間で口論が絶えず、私が選択すべき道は決まっていたとしか思えませんが、 天邪鬼な私は、無謀な父親に反対する母親を押し切って、学士入学する道を選び、父親一人で創成期の南日本カルチャーセンターを経営することとなりました。 最初の三年間の会社経営は、約4千万円の累積赤字を生み、旧態然とした経営は無謀で困難と立証でき、この結果に父は退職金の全額を覚悟していたようです。



 1978年4月が私の正式入社日です。時間的猶予もなく、全てを一新することを目指しました。最初に着手したのは新しい企画と販売でしたが、 その年は参加者280名に終わりましたが、1979年度の夏は358名と増加し、それまで鹿児島県と宮崎県だけで販売していたものを大分県、沖縄県、熊本県と拡大させ、 翌年の1980年には500名近い参加者を出し、以後、毎年600名前後の参加者を数えるようになり、「1年間公立高校交換留学プログラム」「冬のホームステイ」 「わんぱく留学」「ジュニア留学」、「レディースホームステイ」「ティーチャーズホームステイ」「シニアホームステイ」など、次々と新企画と実績を積み上げ、 日本国内でも有数の参加実績と歴史を誇る国際理解教育団体として名を馳せてきました。また、1981年に自社ビルを現在地に購入し、2007年に代表者が変わり、 1996年には観光庁登録となり、現在では県内に三社しかない地場産業の一社となり、九州の多くの地方自治体や教育委員会の実施する「青少年人材育成事業」 なども手掛けております。
 つきましては、創立50周年を記念いたしまして、これまで50年に亘るプログラムの軌跡を年度別、グループ別にして、弊社に残された映像を弊社ホームページ に掲載するという一大プロジェクトを企画いたしました。しかし、半世紀も前の資料・記録等は散逸しているものも多く、御参加されました皆様方の所有される 写真等をお借り出来れば、一層有意義で充実したプロジェクトの実施が可能となりますので、ぜひ、ご協力くださいますようお願い申し上げます。



2025年4月吉日

株式会社 南日本カルチャーセンター

代表取締役社長 濵田 純逸