〜堕落したホームステイを斬る!〜

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筆  者 : 濱 田 純 逸

 

 

  1.変わりゆくホームステイ   5.一般的な参加者の現状  
  2.変化の背景   6.参加者と主催者に求められるもの  
  3.ホームステイの二極化   7.異文化では、始めにトラブルありき  
  4.ホストファミリーへの影響   8.最後に  
         

 

     
  1.変わりゆくホームステイ


 1974年(昭和49年)7月、九州で初めて、ホームステイの参加者達が西鹿児島駅からアメリカへ出発する時、参加者も保護者も抱き合って、人目をはばかることなく涙を流しながら別れたことが、まるで昨日のように思い出されます。そして、約10年間は、全く同じような出発光景を見ることができました。でも、それから約30年、今年の出発時に、涙を流しながら別れる生徒と保護者はどこにも見当たりません。そうなってから、同じく10年ぐらいはなるでしょう。親子が涙ながらに別れていたのが、なぜ笑顔で別れるようになったのでしょうか。この変遷の中に、日本のホームステイの問題性が、凝縮しているといっても過言ではありません。

 今となっては信じられない話かも知れませんが、30年前の涙は、アメリカに行く生徒も、送り出す親も、未知の世界を目の前にした不安と恐怖の涙だったのです。「ホームステイ」という言葉すら市民権のない時代ですから、1ヶ月間も言葉も分からないアメリカ人家庭で、無事過ごしてこられるだろうかという恐ろしさは、参加者や保護者にとって想像以上のものでした。周囲にホームステイ参加者は一人としていない、ましてや、初めて海外に出るという生徒とその親ばかりですから、その分だけみんな真剣にホームステイに取り組んだものです。事前の英語の学習や自文化学習でも、現地の異文化学習でも、ホームステイ参加者には、誠実で、真摯な相互理解の学習姿勢がありました。

 例えば、アメリカ到着第二日目、ステイ地の市長に表敬訪問に行った際、その町の行政について英語で説明する市長の話を、ほとんど理解できないにもかかわらず、ノートを片手に鉛筆で一生懸命に記録を取ろうとする、中学生の姿がその象徴的なものでした。それが現在においては、説明する市長の英語をかたわらに、市長の椅子に勝手に座り、右手はピースのポーズで写真の撮り合いをする、そんな様子を時々見ます。誰でもがホームステイという言葉を使うようになり、ホームステイ参加者が周りに溢れるようになって、ホームステイは気軽に参加できるようになりました。それだけ国際交流の輪は広がっているのかもしれませんし、それ自体は決して悪いことだとは思いません。いたずらに不安になるのではなく、いい意味での気軽さは必要だと思います。でもその気軽さが、安易さに変化していくことが危険なのです。30年の歳月の中で、異文化学習の場であったホームステイが、観光旅行やお買い物ツアーと化して、明らかに現在でも変化し続けている現実を、私は現場で数多く見ております。今やホームステイとは、まるで「学生のための海外旅行」ではないかという危惧と不安は、片時たりとも頭を離れることはありません。

 

 
     

 

     
 

2.変化の背景

 
 30年前、保護者はなぜ高額な参加費用を、子供のために支払ったのでしょうか。保護者はなぜ子供がホームステイに参加することを許可したのでしょうか。それは、保護者がホームステイを異文化学習と国際交流の場と、理解していたからにほかなりません。来るべき21世紀に生きる自分の子供達には、国際感覚と英語力が必要であると痛感しているだけに、ホームステイの成果にそれらのものを期待していたわけです。すなわち、ホームステイを教育的なものとしてとらえ、「かわいい子には旅をさせよ」というような気持ちで、その参加費用を支出していたのです。そして、子供達も保護者のその認識を理解し、異文化理解の学習の場としてホームステイに参加していました。ところが、その保護者の理解の仕方も、価値の多様化とともに、変化、分化してきているのです。

 「とにかく数多くの違う国へ行かせたい」という、観光旅行でも可能な、多くのいろんな国へ行かすことが目的の親の意向、「一人旅をさせたい」という精神的な鍛練を目的とする親の考え、「英語の学習をさせたい」という語学勉強が中心となるニーズなど、中には「太平洋を一人で渡って帰ってくるだけでもいい」という価値観を持つ父親もいました。このような多様化する保護者の価値観も、参加者のホームステイに対する参加意識に、微妙に影響を与えております。

 当初は「異文化学習」という言葉に代表されるように、ホームステイへの参加は、純粋に「異文化学習の場」であるという自覚が、明確に参加者と保護者に存在していました。その純粋な「異文化学習の場」であるという意識が、次に、「体験学習」という意識に変化していきました。すなわち、異文化で様々な体験をすること、そのこと自体に大きな意義があるとして、プログラムの目的が少し拡大解釈される形になっていきました。そして次には、体験学習そのものに意義があるという考えが、ホームステイに参加すること自体に意義があるという変化を見せ始めました。そして、異文化学習の方法論としてのホームステイであったものが、ホームステイそのものに価値があるかのごとく、方法論が目的化して行き、ホームステイに「参加する」ことで、その異文化理解や相互理解の学習目的が達成できるという誤解に発展しています。参加者や保護者、さらには、プログラム主催者の少しずつの微妙な意識の変化が、時間の経過と共に、大きな認識の相違と誤解に発展して行った現状を、私は複雑な思いで受け止めております。

 それでは、「異文化学習や国際交流」であったホームステイが、「学生のための海外旅行」へと変化している原因は、どこにあるのでしょうか。その原因には、先述した「保護者の価値の多様化」、「参加者の認識の微妙な変化」以外に、複数の間接的、直接的要因が考えられます。

 まず、間接的遠因としてあげられるのが、日本における海外旅行人口の飛躍的な増加です。1974年の1年間の日本人海外出国者数が、約250万人であったものが、現在では約1700万人に増加しております。それと呼応するように、センターが初めてホームステイを実施した、1974年の九州からの参加者157名の中で、パスポートを所持していた者はゼロであったものが、1998年の参加者のパスポート所持者は、123名にも上っています。すなわち、20%を超える参加者達は、ホームステイの前に海外渡航歴があったということです。さらに渡航状況を調査すると、家族旅行として短期間ではありますが、アジアを中心に、ヨーロッパ、北米、オセアニアと広範囲に渡っており、その内容と数字から、今や生徒が海外に出かけることは、極めて一般的なことなのかという印象を抱きます。前回は家族で海外旅行へ行ったので、今回は一人でホームステイに参加するという、ホームステイに申し込む時点では、いわば海外旅行の延長でしかない参加者側の意識を想像するに難くありません。ですから、参加者がホームステイでは長期間の家庭滞在を楽しみながら、お買物もいくらでも楽しめると考えるのも不思議なことではありません。

 次に、直接的要因として考えられるのが、ホームステイの実施が、様々な団体よって行なわれるようになったということです。実施する主催者は、当初、主に国際交流事業団体等が中心であったものが、大学、短大、高校等の学校法人や語学学校や塾、さらには任意団体から観光専門の旅行業者と枚挙にいとまがありません。国際交流や異文化学習としてのホームステイの果たす役割を考えれば、このこと自体は、その底辺の広がりという意味において、好ましいことかもしれません。でも、その底辺の広がりが、右を向いても、左を向いても「ホームステイ、ホームステイ」という皮相的な環境を作り、皮肉にも先述したようなホームステイの観光旅行化を促進しているという現実を作り出しております。問題はそれらの実施プログラムが、そのホームステイの理念や目的や趣旨をどれだけ正確に消費者に説明し、それに反映した形で実践されているかということだろうかと思われます。しかしながら、先述しましたように、ホームステイ参加者のホームステイに対する認識の微妙な変化と同様、プログラム主催者のホームステイに対する認識も、刻々と消費者ベースに呼応して変化し、消費者のニーズに合わせ、消費者の需要を満たすことに専心する、商業至上主義的視点が、この異文化学習の方法論としてのホームステイにも、大きな影響を与えているのが現状です。

 

 
     

 

     
   3.ホームステイの二極化


 このような現状の中、実施されているホームステイは、完全に、「変化」から「分化」しております。現時点では、基本的には「二極化」していると思われますが、先述しました商業主義的な視点から、消費者のニーズに呼応する形で、今後、さらに「多極化」して行くのではないかと予想されます。

 まずその二極化しているホームステイの一つは、異文化理解や相互理解の「学習の場」としてホームステイを位置づけている、従来からの認識に基づくホームステイです。言い換えれば、ホームステイの発足時点からの理念を継承し、一貫した教育性をプログラムの中核に置いているものです。この類のホームステイの大きな特徴は、ホームステイに出発する事前の学習を徹底して重要視しているところにあるといえます。参加者による事前の異文化理解と相互理解の学習と、主催者による事前のこれらの学習指導なくしては、ホームステイは観光旅行でしかなく、教育的効果は希薄であるという理念の上に、この認識を持つホームステイは成り立っています。ですから、これらの事前学習の欠落は、参加資格の欠格事項と考えているところが、特筆すべきことでしょう。ここでは、このような理念と方法論を持つホームステイを、「ホームステイプログラム」と仮称しましょう。

 もう一つは、従来のホテル滞在に代わって、ホームステイという斬新な方法を取りいれ、観光やレジャーやお買い物などに、さらに英語学習や国際交流をも追加した、盛りだくさんの、いわば「ホームステイツアー」(仮にこう呼びます)ともいうべき、娯楽と教育が混在した内容のものです。明らかに、「ホームステイプログラム」から派生したものであり、気軽さと容易さにおいては、観光旅行と同等、同質のものでしょうし、誰もが自由に参加できます。当然、事前における厄介な異文化理解や相互理解の学習はないでしょうし、わずか四、五時間の事前学習会を経てホームステイに出発して行きます。この形態の多くは観光旅行会社によって主催、運営されていることが多く、海外の修学旅行にホームステイが付加されたものなどが、この形態を取っているといえるでしょう。そして、この二番目の形態は、その娯楽性と教育性の色合いが、そのツアーの内容によって著しく異なり、大きな幅の広がりを見せており、今後、さらにこの形態が、「より一層、観光旅行化した形のホームステイ」に、加速度的に分化していくような予測をしております。

 これら大きく異なる二つの「ホームステイ」を中心として、目的国や期間の長短、主催者のホームステイ理念、参加者の認識や保護者の価値観などが複雑に絡み合い、混濁とした状況を作り出しております。そして、区別できない、同じ「ホームステイ」という名称で、販売、流布されているところに、消費者サイドにとっての問題の深刻さがあり、消費者における需要と主催者における供給の不一致が発生しているように思えます。つまり、異質の商品であるものが、同じ「ホームステイ」という名称であるがゆえに、消費者の求めるものと主催者側の提供しようとするものの間に、誤解や錯誤や齟齬が発生しやすい環境にあり、結果的に、両者にとって不幸な現実をもたらす一因をなしているのです。ホームステイにおいてトラブルが多発している原因は、これらのことに起因しているように思われますが、このことに気づいている者は極めて一握りの方々であり、現在においてもこのことは深く、静かに進行しており、非常に根の深い問題となっております。そして、問題の原因が根幹的なものだけに、それがさらなる問題の拡散を生む現実が、既に存在しております。

 例えば、先述しました、勝手に市長の椅子に座って写真を撮る生徒は、「ホームステイツアー」や「観光旅行」に参加すべきであって、「ホームステイプログラム」に参加したことは、間違いだったのではないかという素朴な疑問が生まれます。それは本人にとっても大きな苦痛でしかありませんでしょうし、ホームステイプログラムに携わる、お世話する側の人にとっては迷惑以外の何物でもなく、両者にとって不幸なことなのかも分かりません。事実、この生徒の場合、事前の注意と指導を守らなかったことで、現地の関係者は大きなクレームを市の広報課の方から頂きました。受入れ側の現場では、これらの少なくとも二面性を持つ、ホームステイのそれぞれの特徴を、正確に把握し、それによる対応がなされなければ、今後ますます、様々な問題が発生してくる可能性がでてきます。そして残念ながら、現実では、指摘されたそのような対応は、受入れ側の現場では、全く手付かずの状態であります。そしてそれは、実際にホストファミリーにも影響が及んでいきます。つまり、ホームステイの場合、参加者側と受入れ側という両面があり、参加者側の言動が受入れ側に与える影響を、主催者は常に考えなければならないという現実があります。ですから、少なくとも日本における主催者は、「ホームステイプログラム」と「ホームステイツアー」という異なる性質のものを、はっきりと区別し、参加者側に注意深く説明し、より正確な認識と説明と事前の研修を、提供する義務があると思います。そして、参加者側も同様に、「ホームステイプログラム」と「ホームステイツアー」の違いを明確に理解し、自分の求めるもの、自分の参加しようとしているものへの理解を深め、錯誤のないようにする責任があると思います。

 

 
     

 

     
 

4.ホストファミリーへの影響

 
 ホストファミリーには、お金を受取って生徒を自宅に受入れる、いわば、「ビジネス」のホストファミリーと、全くの無報酬、すなわち「ボランティア」として生徒をお世話するホストファミリーの二通りの方法があります。前者の場合は、主にイギリスやオーストラリア、ニュージーランドやカナダなどで行われているホームステイの方法であり、後者は主にアメリカで取られている方法です。このホストファミリーが「ボランティア」か「ビジネス」かということは、大変大事な問題であり、ホームステイの根幹的な問題なのですが、特にホストファミリーがビジネスである場合、主催者側によって、そのことが消費者には公表されていないという問題があります。

 前者の場合、つまり、ホストファミリーに滞在費を支払い、ホストファミリーは義務として部屋を提供し、食事を与えなければならないという契約制の場合は、双務契約の履行上、契約に基づくサービスの内容に不履行があれば、参加者がホストファミリーに対して、基本的にそれを要求することも可能になってくるわけです。しかしながら、これらの要求が頻繁に行われ、その要求内容が主催者とホストファミリーとの契約内容以上のものになる場合を懸念したり、過度の要求が国際交流のトラブルに発展して行く可能性を憂慮して、主催者側は参加者側の権利意識を助長し、刺激しないために、このことを必要以上に公表することを避けているように思われます。しかしながら、このことは先述しましたように、根幹的な問題であるがゆえに、主催者側は明確に参加者に知らしめる義務があると考えます。

 参加者側と受入れ側の両者にこれらに関する正確な認識があれば、ホストファミリーも仕事ですし、参加者もホームステイという名の下宿という視点で臨めばいいわけですから、気楽であり、ホストファミリーに気を使うこともありません。参加者は彼らと異文化の話をする義務もありませんし、家事を手伝う必要もありませんし、ホストファミリーは、部屋と一日二回の食事を提供すればいいわけですから、この場合は、参加者とホストファミリーとの間において問題は発生し得ません。つまり、この場合を極言すれば、ホストファミリーとはホテルなのですから、お金を支払いさえすれば、相手側の目的のほとんどは達成されていると考えられ、それ以上に相手のことを考える必要はないという、ビジネス上での関係でしかありません。日本流に考えれば、このようなホームステイは民宿に滞在するのと同様であると考えれば、理解し易くなります。そうすると、これまで私が述べてきました「ホームステイツアー」においても、ホストファミリーがビジネス上の契約においてお世話されるのであれば、対ホストファミリーに対する参加者側、主催者側の問題性は、全く存在し得ないということになります。

 問題は、「ボランティア」のホストファミリーによる、「ホームステイツアー」において発生します。彼らがそれをボランティアで行なう理由は、「その生徒の国の文化を知りたい」とか、「同世代の子供を持つ親として、時間を共有してお互いをもっと理解したい」とか、「日本や東洋に興味があるから」とか、「異なる文化の人と接触するのは面白そうだから」などの様々な理由が挙げられますが、いずれも異文化理解や相互理解を目的としており、当然ながらお金ではないわけです。ところが、参加者がこれらの背景として成り立っているシステムを知らずして、もしくは、知っていても、観光旅行的気分で参加すれば、ホストファミリーとの間に大きな溝が発生することになってくるわけです。すなわち、それらの参加者のホストファミリーは、大きな失望を感ずることになってしまいます。参加者本人は「ホームステイプログラム」に参加して満足して帰国したとしても、そのホストファミリーは大変失望していたという事例は、過去に限りなく発生している事実です。この参加者側と受入れ側の目的を両立させることが、大変大事なことなのであり、この二面性があるということを絶対に忘れてはいけないのです。もちろん、ホームステイ発足当初は、先述しましたように、参加者側も受入れ側も、この基本的な原点に立っていましたから、すなわち、「異文化理解」「相互理解」という共通の目的によって、両者が「ホームステイプログラム」に参加しているという認識でおりましたので、全く、問題性はなかったわけです。しかしながら、参加者のホームステイに対する認識の変化と、主催者の商業至上主義的な価値観の多様化の中で、「ホームステイプログラム」と「ホームステイツアー」という微妙に異なる分化が発生し、受入れ側にそのしわ寄せがきているという現状を見れば、ボランティアのホストファミリーによって行われるホームステイでは、「ホームステイツアー」ではあってはならないという強い認識を持つべきだと思います。

 でも、これらの問題は参加者の問題というより、主催者を含めた参加者側の問題ということができると思います。いやむしろ、参加者側より主催者の問題と言った方が、適切かもしれません。つまり、参加者は生徒であるわけですから、主催者にその参加者を事前に指導する義務があるのであり、それに怠惰であったり、怠慢であったりするのでは、ある意味では、生徒とその保護者が最大の被害者であるといってもいいかもしれません。参加者に、少なからず、交流の意図はあったとしても、それを具体的にどのように実践すればいいか戸惑うのは当たり前であって、特に参加者が中学生であれば、主催者が事前にこれらに関する具体的指導をしなければ、何もできないのは当然です。その意味においては、これらの問題は、主催者の情報提供と指導力の問題とも密接に関連しています。そして、残念ながら実際は、主催者にこれらの指導を行う能力も、情報も、理念も、方法も不足しているのが、数多くの偽らざる現状であるといえるかもしれません。つまり、ホームステイの海外旅行化、観光旅行化が加速していることから演繹的に考えれば、そのような悲観的な分析をせざるを得ません。

 

 
     

 

     
 

5.一般的な参加者の現状

 
 それでは現実問題として、一般的な参加者がいわゆるホームステイに参加した場合に、ホストファミリーとの家庭生活現場では、どのような事態が発生して、どのような展開になるのかを、具体的な事例で紹介してみましょう。

 例えば、アメリカに到着したその日に、参加者はホストファミリーと出会って、その日の夕方、家族そろって最初の夕食です。食事をしながら、矢継ぎばやに放たれるホストファミリーの英語の質問に、参加者は自分一人だけで、どれだけ英語で返事をしていくでしょうか。現実はほとんど「イエス」「イエス」と答えているだけです。食事が終わって、家族のだんらんです。今日あった出来事をいろいろと話すかもしれません。その会話にどれだけ生徒は参加できるでしょうか。現実は、ほとんど全く理解できずに、ただ笑みを浮かべて、彼らの会話を聞いているだけで、ときおり自分に向く会話の矛先に、先ほど同様、「イエス」「イエス」と連発しているに過ぎません。それが例えば1ヵ月も続く中で、英語で話し掛けられ、尋ねられることが恐くなりはじめます。そうすると、笑いでその場を取り繕い、ごまかせる期間はせいぜい3、4日程度で、1週間もする頃には、食事が終わったら、自分の部屋に戻り、内側から鍵をかけて閉じこもるようになります。ホストファミリーがドアをノックして、リビングにくるように促しても、それを断わる理由は次の三つに集約されます。一番目は「手紙」を書いているから忙しいという拒絶。二番目は「日記」を書いているから行かれないという拒絶。三番目は「宿題」をしているから忙しいという拒絶です。そうすると、ホストファミリーからセンターのアメリカ事務所に電話がきて、お世話している生徒には、交流を行なおうとする姿勢が全く見られないという苦情がきます。

 翌日、センター職員は、その参加者のところに行き、カウンセリングを行なうわけです。「なぜ、部屋に閉じこもってばかりいるの?」とたずねると、なぜそんなことを知っているのとびっくりした顔をしながら、「だって英語が分からない。」という返事が返ってきます。「英語が分からなくても、交流をする姿勢が大切だよ。」と様々な事例を挙げて、指導していきます。それを素直に受け入れて実践して行く生徒は、時間の経過とともに、ホストファミリーとの生活に適応して、異文化学習に熱心になっていきます。それができない生徒の場合、楽しみは学校に移って行って、一緒に来た日本人のお友達と過ごす時間になります。日本語で何を買ったの、どこへ行ったのという話しが始まり、挙げ句の果ては、自分のホストファミリーはどこにもつれて行ってくれないとか、ホストファミリーの食事はまずいとか、部屋が汚いとか、ホストブラザーは幼くて生意気だとか、ホストシスターはわがままで嫌いとかなどの、様々な不満と愚痴が始まります。そして、その頃日本で、参加者の両親達は、「今ごろ自分の娘や息子達は、英語を使いながら、ホストファミリーと交流しているだろう。」と考えているわけです。

 ホームステイに参加するにあたって、異文化学習とは何であるかを、何も考えることなく申込んで、事前に何の学習もせずホームステイに参加した場合、大同小異、このような事態になることが予測されます。それでも良いではないかと参加する方は思うかもしれませんが、ホームステイ参加者の義務として、受入れ側のホストファミリーに、もっと目をむけて欲しいと思います。

 

 
     

 

     
 

6.参加者と主催者に求められるもの

 
 このケースで大切なことは数多くあります。まず、参加者は、英語は言うまでもなく、事前に異文化学習と自文化学習の事前学習を徹底して行なう必要があるということです。事前学習のない「ホームステイプログラム」は「観光旅行」に過ぎないと喝破できるかもしれません。そのためには、プログラム主催者は、事前の異文化理解や相互理解、自文化学習の指導を徹底して行うノウハウを学習し、参加者に対してその指導を実践すべきだろうと思います。「ホームステイプログラム」の場合、ただ単に、参加者を集めて連れて行くという発想は、余りにも旅行的な発想です。例えば、参加者に対して、20時間の事前学習会を開き、異文化に関する指導を行ない、さらに出発までに英語指導を10日間にわたって行なうというような姿勢が、主催者になければなりません。さもなくば、参加者はこれらの事前指導がないホームステイは、「ホームステイツアー」であるという考えを持つことが大切だろうと思います。

 次に、「ホームステイプログラム」において、期間中にどうやって異文化学習を進めていくかという、ホームステイにおける学習の仕方が問われます。また、どうやってホストファミリーに自国文化の紹介を行い、彼らとの交流を推し進めていくかという、具体的な交流方法を主催者は指導すべきです。そして参加者は、主催者によって事前に配布されたガイドブックや手引書の指導に従い、事前に学習した方法で、現場で実践してみることが大切です。この2つは、ホームステイ期間中にも異文化交流カウンセラーなどからの指導や助言を参加者は必要とします。ですから、主催者側のスタッフがホームステイの開始から終了まで、現地に常駐する必要が生まれてくるのです。これらの方法論を事前に指導しない、もしくはできない主催者の場合でも、意義ある異文化学習や交流をしたいという参加者にとっては必須のことですので、市販の本や、国際交流実施専門団体などの発行する指導書や説明書などを参考にして、事前に学習しておかなければなりません。また、先述したように、ホストファミリーの目的に対しても参加者は目を向けなければなりません。すなわち、ホストファミリーの目的を達成できるのは、参加者でしかないという自覚が必要だろうと思います。もし、参加者に異文化理解や相互理解の学習の意思が欠落していれば、それは同じ目的で参加しているホストファミリーの目的を、喪失させてしまうものであるということに、気づく必要があると思います。

 さらに、ホームステイ期間中の活動の内容に、観光旅行的要素が多分に盛り込まれ、それがホームステイではあるけれども、実質的には観光旅行となっていることがあります。当然これは、参加者の問題ではなく、主催者の問題であるわけですが、スケジュールが余りにも娯楽的、歓楽的傾向に満ち満ちていることによって、本来のホームステイの目的から参加者の目的は離脱していくことになることを主催者は知っておくべきです。現地の小学校訪問、中学校訪問、高校訪問とか、生徒達との交流会とかは当然必要でしょうし、老人ホームや病院などでのボランティア活動の実践や、ホストファミリーへの奉仕活動や障害者理解教育、リサイクル活動への参加や環境問題への取り組みなど、「ホームステイプログラム」で手がけている活動内容は、「異文化学習と国際交流」という目的に真正面から取り組んでいるものであるべきです。でも、これらのものだけが、絶対的な活動内容であると断言しているわけではありません。また、それらのものを当然すべての参加者が希望しているわけではないということも承知しています。もし、それを臨まない生徒が、「ホームステイプログラム」に参加した場合は、先述しましたように、参加者にとっては苦痛以外の何物でもないし、主催者にとっては好ましくない参加者という、両者にとって不幸な状況が現出することになり、これほど無意味なことはないでしょう。

 そして、午前中の活動の中に組まれる「英語の授業」にしても、現地受入れ側が単純に提供するものは、名ばかりであることが余りにも多すぎるということを、特に日本の主催者は熟知しておくべきでしょう。その背景には、日本のプログラム主催者は、どのような授業が現場で提供されているかさえも知らないという可笑しな現実があります。現場は現場任せということでは、「英語の授業」の内容は安易に流れるのは必定です。主催者が現地の授業の内容や教科書にも介入し、さらには現地の先生が参加者に出す宿題ひとつにも注文をつけるようでなければ、プログラムの価値はそれだけでも大変な損失です。すなわち、通常、英語の授業を担当する現地の先生は、日本の中学生、高校生、大学生の英語力がどの程度であるかを知りません。また、日本の中学一年生が、学校でどのような内容の英語の授業を受けているのかも知りません。ですから、不要な内容を授業で行ったり、アメリカ人の子供達には極めて簡単であっても、日本人の中学生には高度であったり、もしくはその逆のことも往々にして起こります。これを修正できるのは、日本のホームステイ主催者以外にはできないのです。そういう意味では、日本の主催者が現場で直接、参加者に指導や助言を行なわないことは、致命的な欠陥として、今後益々、参加者から指摘されていくだろうと思います。もちろん、グループを引率される先生に、これらのものを依頼することもできるでしょうが、引率される先生は、あくまでも学校の先生であり、ホームステイや異文化理解や相互理解の学習のプロではないということを考えれば、かなりの無理があると思われます。

 

 
     

 

     
 

7.異文化では、始めにトラブルありき

 
 ホームステイは、異文化で営まれる異言語下の生活です。異文化生活とは、これまでの価値が反映されない、既存の知識が意味を成さない、当たり前のことが当たり前でない、戸惑うことばかりの生活であるということです。異なることを常態とする生活だということです。つまり、ホームステイに参加することは、「文化的戦場」に行くことなのです。異なることに価値があると自他共に認めるからこそ、ホームステイに意義があるわけです。でも、それは諸刃の剣でもあります。つまり、異なることによって「教えられ」「学ばされ」「考えさせられる」生活ではありますが、同様に、異なることによって「問題が生まれ」「困難が生まれ」「危機が発生する」生活でもあるのです。

 ですから、「異文化では、始めにトラブルありき」という基本的な考えが、参加者にも、主催者にも必要です。考えてみれば、このことは当然のことであり、自然の摂理ではあるのですが、このことが余りにもないがしろにされ、参加者も主催者もこのことを認識しているようには思われません。その証拠に、もし異文化生活の原始状態を、「始めにトラブルありき」と認識しているのであれば、トラブルはなかなか発生し得ないと断言できるからです。また、発生したとしても、大きなトラブルに発展することはあるはずがないからです。厳しい考え方をすれば、参加者は「トラブルの中」で学ぶ覚悟が必要なのであり、主催者には「参加者は常時トラブルの中にいる」という危機管理意識が、大変重要ではありますが、残念ながら、現実には両者ともに、この「覚悟」と「危機管理意識」は、欠落しているというのが現状だろうと思います。

 例えば手前味噌ではありますが、センター職員がホームステイ期間中、必ず現場に常駐するのは、「始めにトラブルありき」という考えがあるからです。異文化摩擦といわれるトラブルに、即対応するために、現場に常駐する必要があるのです。それは主催者にとっては「義務」だということです。もちろん、参加者に対してだけでなく、受入れ側であるホストファミリーに対する義務でもあります。参加者によってもたらされた、両者間の異文化摩擦を緩和するために、主催者が参加者を代表して、受入れ側に対処する必要性が生まれるからであり、また、その逆、すなわち、ホストファミリーによってもたらされた異文化摩擦を、参加者に対して対処することも起こり得るからです。ですから、常駐してトラブルに対処する職員は、両国の文化と価値を理解し、精通するものでなければ、トラブルの処理には困難が伴ないます。

 これらの「始めにトラブルありき」という認識に伴なう主催者の対応策は、異文化理解のプロによる現場常駐という方法論が、最善であるというだけでなく、唯一無比のものであり、これ以外の方法論はありません。願わくば、日本における国際交流事業のすべての主催者が、これらの認識を抱くようになっていただきたいと思います。そうすることで、交流プログラムにおけるトラブルは、激減するだけでなく、トラブルを通して「教えられ」「学ばされ」「考えさせられる」異文化生活という一面性だけが残存し、トラブルに対する参加者の認識までもが、変化することになるだろうと思われます。そうすることによって、残念ながら、ときおり耳にする、「ホームステイ被害者の会」「国際交流被害者協議会」(いずれも筆者による架空の名称)のような、不幸な参加者達が二度と生まれないことを、願わざるを得ません。

 

 
     

 

     
 

8.最後に

 
 先述しましたように、異文化での生活は「文化的戦場」です。そして、戦場に赴くのであれば「相手を知る」ことが必要です。それが長期間も続く文化的戦場ならば、「相手を知る」という「事前学習」が、最大の「論理武装」になると気づくはずです。いくら「異文化学習や国際交流」を目的とした「ホームステイプログラム」であっても、参加者が事前学習やプログラム期間中の指導において、それに応えられる努力や実践を行なわなければ、結果的に本来の目的を達成することはできないということです。すなわち、どのような立派な計画の「ホームステイプログラム」に参加しても、観光旅行としての結果しか残らないということもあるということです。

 そういう意味では、ホームステイ実施団体がよく参加者に言っていることですが、「ホームステイは観光旅行ではない」という言葉は、大変な間違いです。ホームステイは観光旅行にもなれば、異文化学習や国際交流の実践の場にもなります。本来のホームステイの目的からすれば、「ホームステイは観光旅行であってはならない」という表現が適切です。そして、この二つの意味の根本的相違を、すべての参加者と保護者、そして、国際交流事業団体やプログラム主催者にも、正確に理解してほしいものです。

 出発の際、親子が駅のターミナルで抱き合って、泣いて別れた30年前の姿は、「かわいい子には旅をさせよ」と、その昔、泣いて奉公に行かせた親の子供に対する気持ちと、私には重なりあって見えました。それが私の考える、日本におけるホームステイプログラムの原点でもありました。「異文化生活」という言葉の中に隠された「厳しさ」、それが、異国の、異言語下の、他人の家庭で過ごすホームステイの中に形を変えた、まるで現代の「奉公」的なものとして存在しております。

 私は、真のホームステイとは、学生にとって「環境に適応しなければならない不自由さ」「言葉を自由に使えないいらだち」「日本の家族や両親と会えない孤独感」「他人の家庭で生活する不安」などの幾多の困難が待ちかまえており、それらの苦難をどのように乗り越え、克服していくかが、ホームステイの最も価値の高い側面であるとの認識を持っております。それだからこそ、保護者の皆様は、子供を参加させてみようと考えるのではないかと思います。決して、「ホームステイツアー」やホームステイという名の「観光旅行」に対して、参加させようと考えているとは思いません。プログラムを通して、保護者の皆様は何らかの成果を主催者に求めていると思っております。そしてすべてのホームステイ主催者は、このことに正面から応え、はっきりとした指針と理念を表明する責任があるのではないかと思っております。

 

 
     

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